本名 | 保志 信芳 |
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生年月日 | 1963 年 6 月 22 日 |
出身地 | 北海道広尾郡広尾町 |
生涯成績 | 591 勝 286 敗 109 休 |
横綱在位 | 29 場所 |
受賞暦 |
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広尾小学校の卒業文集に「将来は相撲取りになって、芝生のある家を建てる」という夢を書いた。14歳で親元を離れ、九重部屋に入門。早朝から稽古場で四股を踏み、それが終わると中学校へ通う日々を送る。
1979年春場所初土俵。19歳の83年春場所で新十両昇進。同年秋場所で新入幕を決める。新入幕から所要わずか2場所で小結に昇進。三役に定着するとともに、三賞の常連となる。立ち合いでぶちかまし、突き押しに徹するだけではなく差し手からの寄りなど、馬力にスピードや技能も兼ね備えた取り口。なにより、闘志を全面に出し、最後まであきらめない気迫あふれる相撲でファンを魅了した。
西関脇だった86年春場所で史上初めて5大関を破り、13勝2敗で初優勝を飾る。同年名古屋場所後に大関昇進。しこ名を保志から北勝海に改名した。87年春場所で2回目の優勝を飾り、翌場所は優勝を逃すも13勝2敗の好成績を収め、23歳で横綱昇進を決めた。横綱昇進時の口上は「横綱の名を汚さぬよう、これからも一生懸命稽古をし努力します」。これは親方の歩んできた相撲人生そのもの。誰よりも稽古をし、それを自信に変えて土俵に上がった。無類の稽古熱心と、兄弟子である横綱千代の富士の胸を借りた猛稽古は語り草になっている。
88年夏場所千秋楽を腰痛で休場後、名古屋場所から3場所連続で全休に追い込まれた。腰部椎間板損傷と左股関節挫傷で入院し、2ヶ月の間まともに歩くこともできない状態が続いた。「なんとしてももう1度土俵に上がりたい」という執念で、1日8時間以上に及ぶ壮絶なリハビリを敢行。マイナス190度の冷凍室に入る冷凍治療を取り入れ、腹筋や背筋、階段の上り下りで徹底的に身体を鍛え上げた。再起をかけた昭和天皇崩御の平成元年初場所は初日から14連勝と勝ち進み、千秋楽に旭富士に敗れたが優勝決定戦で下し、見事な復活優勝を飾った。親方は現役時代の思い出の1番としてこの場所の旭富士戦をあげている。
その後もけがと闘いながら横綱として懸命な土俵をつとめ、努力と辛抱で合計8回の幕内最高優勝を飾った。92年5月に現役を引退。28歳と若い引退を惜しまれたが「心も体も自分の全力を出し切った。稽古もリハビリもやり残したことは何もない」と完全燃焼。
93年秋場所後に九重部屋から独立し、八角部屋を創設する。これまで隠岐の海、北勝富士ら11人の関取を輩出している。
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